石田波郷宅跡
石田波郷(いしだはきょう)(本名・哲大(てつお))は昭和期の俳人です。俳句の韻文精神と古典を尊重しつつ、人間の回復を意図する創作の方向性から、「人間探求派」と呼ばれました。
大正2年(1913)、愛媛県温泉郡垣生村(えひめけんおんせんぐんはぶむら)(現・松山市)に生まれ、中学校在学中から俳句を作り始めて、昭和5年(1930)に水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)門下の五十崎古郷(いかざきこきょう)に師事し、「波郷」の号を与えられました。同7年2月に上京し、同年5月頃から10月頃まで東京市経営の深川一泊所に勤務し、辞職後は秋桜子主宰の『馬酔木』(あしび)発行所の事務を手伝いました。同12年、俳誌『鶴』を創刊し、主宰となります。同17年に結婚しますが、翌年召集令状により陸軍へ入隊し、中国へ渡ります。その後、病のため野戦病院へ収容され、同20年1月に日本へ帰還します。数回の転居の後、同21年3月10日に城東区北砂町1―805へ転居し、義父の家の裏に建てられた小屋を住まいとしました。同年3月に俳誌『鶴』を復刊し、9月には波郷宅を編集部として総合俳誌『現代俳句』を創刊しました。同23年5月に清瀬村(現・清瀬市)の国立東京療養所へ入所し、療養・手術を受けます。同33年3月28日、練馬区谷原町へ転居しました。
波郷が居住した北砂町周辺は、戦災の多大な被害によって荒涼としており、そのなかで波郷は、焦土に生きる人々やそこからの復興を俳句に詠み、その俳風は「焦土諷詠」(しょうどふうえい)といわれました。闘病生活のなかで詠んだ句集『惜命』(しゃくみょう)(昭和25年刊行)は、療養俳句の金字塔として高く評価されています。また、昭和32年3月から同33年2月にかけて、『読売新聞』江東版に「江東歳時記」を連載しました。江東・墨田などの江東5区を、波郷自らが取材して、季節の風物・行事・産業・人物を俳句と短文で紹介し、波郷の撮影した写真が掲載されたこともあります。
住所 |
北砂2―1付近 |
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地区 | 城東 |
所在地(所有者) | * |
登録年月日 |
2025年5月12日 |
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