ここから本文です。
更新日:2017年1月19日
江東区は、江戸時代までは東京湾に注ぐ河川のデルタ地帯の一部で、海面と散在する小島があるだけでした。しかし、亀戸周辺には、人が住んでいたことを示す伝説や地名が残されています。
江東区の発展は、江戸初期からの埋立てに始まります。慶長期(1596年~1615年)に深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立しました。また、万治2年(1659年)に、砂村新左衛門一族が、宝六島周辺の新田開発を行い、砂村新田と名づけられました。
明暦3年(1657年)の大火後、幕府は火事に強い町づくりを計画し、密集した市街地の再開発、拡張に努めました。まず貯木場を永代島に集めて木場を創設し、元禄14年(1701年)に現在の木場に移転させました。さらに埋立て開発の進んだ深川地区には、武家屋敷や社寺を移し、正徳期(1711年~1716年)になると市街地に編入されました。
区内を縦横に走る河川を利用しての木材・倉庫業、米・油問屋の町として栄えた深川地区は、社寺の祭礼、開帳などの年中行事を中心に、江戸市民の遊興地としても賑わい、江戸文化の華を咲かせました。
一方、城東地区は、江戸近郊の農地として、西瓜、カボチャ、ナス、ネギなどの野菜類を江戸市民に供給することで栄えました。また、江戸近郊の行楽地としても知られていました。
現在、亀戸大根は復活に向け、一部の人々により大切に育てられています
明治時代になると、江東区は広い土地と水運を利用した、東京の工業地帯となりました。明治11年に深川区が発足、昭和7年には南葛飾郡に属していた城東地区が城東区となり、東京市は深川区・城東区を含む35区となりました。
昭和18年に都制が導入され、22年には35区の区画整理が行われて、深川・城東の2区が合併し現在の江東区が生まれました。さらに同年、新しい地方自治制度によって、今の23区制となりました。
現在の江東区は、水に恵まれた自然的特性をいかしながら「みんなでつくる伝統、未来 水彩都市・江東」を目指して、発展しています。
明治時代の浅野セメント工場
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください