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更新日:2021年7月13日

江東区の地名由来

あなたの町の由来と文化財

清澄

寛永6年(1629)ごろ、この一帯の干潟を開拓した猟師町(りょうしまち)開拓八人の一人、弥兵衛がこの町の祖で、はじめは弥兵衛町と言ったが、元禄8年(1695)の検地の時に改めて清住町となる。清住とは、地形が安房国の清済(清澄)に似ていることからつけたと伝えられている。

昭和7年、伊勢崎町や西・裏・仲大工町と合併して、清澄町と改称とした。

常盤

古くは深川村の分郷(わけごう)で松代町といったが、四の橋南側に移って南松代町と言っていた。後に火災で焼失し、高橋際と二の橋通りに替地が与えられた。そのとき、新町名を付けるにあたり、もとの松代町の「松」にちなんで縁起よく常盤町と名付けられた。

俳聖松尾芭蕉の庵があった地で、「古池やかわず飛び込む水の音」はあまりにも有名な句である。

新大橋

新大橋は、元禄6年(1693)架橋された。昔大橋といわれた両国橋の次に造られた大きな橋に由来し、現在の町名になったのは、昭和9年である。

歌川広重の描く当時の木橋「名所江戸百景」中の「おおはしあたけの夕立」は傑作であり、また、芭蕉も新大橋が架橋され、その恩恵に浴した喜びを「ありがたやいただいて踏む橋の霜」と詠んでいる。

森下

昔は深川村の一部であった。江戸時代の前期(1660年ころ)次第に町屋が建てられた。当時、この地の酒井左衛門尉の下屋敷に樹林が繁茂していて、周囲の町屋は森の下のようであったから森下と呼んだ。

平野

元禄11年(1698)幕府によって埋立てられ町屋が開かれたが、後に名主平野甚四郎長久の姓をとって平野町としたのが始まりという。

三好

元禄14年(1701)、中川屋佐兵衛(なかがわやさへえ)等三人が払下げを受けて町屋を開設したことから、16年(1703)に三好町と命名したと伝えられる。

白河

白河楽翁(白河藩主・松平定信の号)にちなんで町名がつけられている。寛政の改革で名高い松平定信(1758~1829)の墓所がこの地の霊巖寺にある。町名となったのは定信の没後100年余のことである。

昭和7年、深川東大工町・霊巖町(れいがんちょう)・元加賀町(もとかがちょう)・扇橋町の各一部を合わせ白河町が誕生した。

高橋

昭和9年6月15日に新しく名付けられた町名で、この地は江戸時代の中ごろから武家の屋敷や町屋が開け、発展してきたが、地名は小名木川に架かる高橋に由来する。

佐賀

寛永6年(1629)に開発された深川猟師町八か町のうちで、はじめは開発者の名をとり藤左衛門町、次兵衛町といった。

元禄8年の検地後、この地形が肥前国(現・佐賀県)佐賀湊に似ているので佐賀町の名をつけたと伝えられる。

永代

昭和6年、付近の町々を合わせ、永代橋にちなんで名づけた。

永代橋の歴史は古く、元禄11年(1698)の創設と伝えられ、五代将軍綱吉50歳の賀を祝し、永代の名を付したといわれるが、永代島の古名をとったとも言われる。

福住

区の西部、一丁目・二丁目に分かれる。この地はもと一色・伊沢・松村・黒江・永堀・大住・東永代・材木の各町を、昭和6年合併して福住と名づけられたものである。

昔は隅田川の河口の洲で、江戸時代に埋め立てられ、網打場、石置場、材木置場などがあったが、しだいに町屋に発展していった。

深川

慶長の初期(1596~1614)、江戸がまだ町づくりをはじめたばかりのころ、深川八郎右衛門という人が、摂津国(現・大阪府)から移住して、小名木川北岸一帯の開拓を行い、この深川の苗字を村名としたが、これがこの地一帯をよぶ名称となった。深川区の名はこれをうけたものである。

現在の深川は、昭和16年、亀住町と和倉町・万年町・冬木町の一部を合併して町名としたものである。

冬木

材木商冬木屋に由来する。冬木屋は、上野国(こうずけのくに、現・群馬県)から江戸に出た上田直次がおこした。三代目冬木屋弥平次は一族の上田屋重兵衛と、仙台堀川の南の地を材木置場として、幕府から買い取った。

宝永2年(1705)町屋をたてて、深川冬木町と名付けたのがこの町の始まりである。昭和15年に和倉・亀久・亀住・大和(やまと)・万年などの各町が合併して冬木1丁目・2丁目と和倉2丁目となった。16年には冬木2丁目と和倉2丁目が合併して冬木町となり、44年冬木とした。

門前仲町

区内随一のにぎやかな商業地区である。門前仲町は、昭和6年、従来の黒江町・門前山本町と蛤町の一部を合併して誕生した。古くは深川永代寺門前仲町、富岡八幡宮の別当・永代寺の門前町屋として発展した。

富岡

昭和6年、従来の富岡門前町と数矢町などいくつかの町を合わせてできた(数矢町は江戸時代浅草の三十三間堂がこの地に移り、遠矢の数を競い合ったところからその名がある)。

富岡の名は、現在の横浜市富岡町にある富岡八幡宮の分霊により、深川富岡八幡宮が建立されたことに由来し、この地が名付けられたと言われている。

牡丹

江戸時代は、海岸を埋め立てた土地であった。昔、このあたりに牡丹を栽培する農家が多かったので、牡丹町と名付けられた。また現錦糸町あたりの牡丹園の職人が多く住んでいたので、この名が起こったともいう。

古石場

地名が示すように古くは江戸幕府の石置場であった。埋立てが進み、周辺に深川海辺新田(しんでん)飛地古石場、久左衛門新田飛地古石場、亀戸村飛地古石場と呼ばれる地ができ、明治24年に統合して深川古石場が新設された。

越中島

隅田川河口にできた寄り洲だった。江戸初期の一時期、播州姫路の領主榊原越中守(えっちゅうのかみ)の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた。

塩浜

昭和43年4月1日、住居表示制度の実施に伴い、浜園町と塩崎町の名からとられたものである。

浜園…大正10年埋立完工、11年11月、深川区に編入され、浜園町と名付けられた。

塩崎…大正10年埋立完工、11年11月、海浜の町を表わす名として付けられたものである。

枝川

大正4年9月、埋立工事に着手、昭和3年4月に完成し、当時の深川区に編入された。

東京市の「枝川改良工事計画」によって、市内の各河川を掘り下げた土砂によって埋め立てられたことから、町名が付けられたものである。

豊洲

区の南端にあり、東京港の一部を構成している地である。

地名は、昭和12年7月、この埋立地に町名が設定され、将来の発展を願って豊かな洲となるよう命名されたものと言われる。

東雲

昭和13年6月1日、豊洲五丁目の東南、海面埋立地に東雲(しののめ)一丁目・二丁目を命名し、更に11号埋立てに伴いここを東雲三丁目(現二丁目)と名付けて現在に至っている。

東雲とは明け方にたなびく雲で、夜明け・あかつき・あけぼのを意味する。

有明

昭和36、37年に10号埋立地の一部を深川有明町(一丁目~五丁目)とし、昭和43年4月1日、住居表示制度実施により現町名となる。

有明とは、「有明の月・有明の灯…」などとも言われ、夜明けに残る月のようすであるが、すがすがしさを感じさせる。

辰巳

十二支で表した辰巳の方向、つまり南東の方角である(江戸城から巽の方角にあたるからである)。

昭和41、2年に七号埋立地が区に編入され、43年4月1日、住居表示制度実施に伴い現在の町名となる。

潮見

昭和43年1月30日、8号埋立地を区に編入する。首都高速九号線が通り、潮見グランドがあり、潮の香のただよう地である。

青海

臨海部の将来のシンボルゾーンとしてふさわしい町名として、すがすがしく、すぐれたさまを意味している。昭和38年から埋立てが始められ、58年から63年にかけて本区に編入された。その帰属は、江東、港、品川の三区の申請により自治紛争調停に付され、57年10月に出された調停案によるものである。現在、臨海副都心として東京テレポートタウンの建設が進められている。

千石

昭和11年12月1日、石島町の南部と千田町の南部を合併して町を作った時、両町の各一字を取って千石町とした。

石島

区のほぼ中央部にあり、大横川(おおよこがわ)沿いの地である。

江戸時代から開け、芝居などで知られていた。昔、付近一帯は海辺の低湿地だと言われるが、石島の名もこのような地形から名付けられたものであろう。

千田

「人里はなれた十万坪…」と芝居の文句にあるように、江戸の頃は淋しいところであった。もとは海岸の干潟を、享保8年(1723)千田庄兵衛が埋め立て、千田新田(せんだしんでん)と名付けたことから、千田の姓にちなんで町名となっている。

海辺

海辺新田(うみべしんでん)がこの町の祖である。慶長元年(1596)ごろから、野口次郎左衛門が開拓を始めた。カヤの茂る干潟を開拓し、海に臨んでいたことから海辺新田と言われ、海辺の町名が生まれた。

扇橋

区の北部にあり、天和のころ(1683年ごろ)深川村と海辺新田の耕地を土地の者が願い出て町屋とし、そこにあった扇橋と言う橋名にちなんで町名とした。扇橋は江戸の文献にも見られることから、古くからあったと考えられる。

猿江

伝説であるが、康平年間(1058~65)源義家の奥州征伐のころ、この地の入江に、「源義家家臣猿藤太」という名入りの鎧が打ち寄せられた。このことから、この地は猿江と呼ばれるようになったと言う。

住吉

昭和9年6月に従来の猿江裏町・同東町・本村町を合併し新設された町である。吉は縁起のよいことばであることから住吉町と名付けられたようである。

毛利

昭和9年6月15日、本村町の北の一部と猿江裏町の北の一部を併せて現在の名に改めた。本村町は毛利新田(もうりしんでん)の一部であったことからこの名が残る。

木場

この地が木場となったのは元禄14年(1701)だった。材木商たちは各地を転々とさせられたが、江戸市中では火事の原因となるため、深川の埋立地が指定された。元禄16年(1703)に木場町と命名された。昭和6年、島田・鶴歩(かくほ)・入船・茂森・扇橋の周辺各町を合わせ、42年、平久町(へいきゅうちょう)も合併した。

昭和48年から材木業者は新木場(一四号埋立地)へ大半は移転したが、まだ木の香を残している。

東陽

東陽町、平井町、豊住町、洲崎弁天町、加崎町にあたる地域が、昭和42年、東陽となった。現在、区役所のある区域である。東陽の地名には諸説があり定かでないが、町の発展を願って名付けられたものである。

亀戸

地名の由来にはいくつかの説がある。一つは、亀形の井桁がある亀の背の甲から水が湧き出る亀ケ井という古井戸があった。もう一つは、この地が島であったころ、形が亀に似ていたからというものである。更に、「かみど(神戸)」であったという説もある。

大島

江戸時代の正保(しょうほう・1644~47)ごろ、海岸の低湿地を開発して村が作られ、約250年前の「元禄図」に初めてその名が出ている。当時比較的大きな島であったので、この地名がつけられたといわれる。

「大島」の呼び名は、弘化四年(こうか4ねん・一八四七)改版「江戸町鑑」(えどまちかがみ)に「大ジマ」と濁音で呼ぶよう強調しており、これは深川猟師町の一つの大島町と区別して、ここを「大ジマ」と呼んだのであろう。その後昭和40年の住居表示制度実施時に「おおじま」と読むよう決められた。

北砂

砂村の村名は、明治22年4月1日、多くの新田を合併して代表的な、砂村新左衛門一族が開拓した砂村新田の名称をとり砂村とした。

大正10年6月30日、砂村を砂町と改称、更に昭和7年10月1日、城東区が成立したとき砂の字を残して北砂町・南砂町とした。そして、昭和41~2年の住居表示制度実施にともない北砂・東砂・南砂・新砂へと町名を変更した。

現在の北砂は、八右衛門新田(はちえもんしんでん)、治兵衛新田(じへえしんでん)、久左衛門新田(きゅうざえもんしんでん)、大塚新田、亀高村等の地域で、昭和7年城東区北砂町一・二・三・四・五の各丁目(ちょうめ)となり、昭和41年に北砂となった。

東砂

荻新田(おぎしんでん)、又兵衛新田(またべえしんでん)、太郎兵衛新田(たろべえしんでん)、中田新田、大塚新田の地域で、城東区成立時に北砂町六・七・八・九・十丁目となり、住居表示制度実施時に東砂一・二・三・四・五各丁目となったものである。

東砂六・七・八各丁目の区域は、もと八郎右衛門新田(はちろうえもんしんでん)の区域である。

南砂

砂村新田(すなむらしんでん)、永代新田、平井新田の地域で、城東区成立時に南砂町一・二・三・四・五各丁目及び、六丁目の一部となり、住居表示制度実施時に南砂となったものである。

新砂

大正時代以降、昭和に入ってからの埋立地で、城東区成立時に南砂町四丁目と九丁目に分かれていたが、住居表示制度実施時に、南砂町四丁目が新砂一・二丁目となり、南砂町九丁目が新砂三丁目となった。ここにある水処理センターは、江東区・墨田区の全部と、中央区・足立区の一部を処理している。

新木場

昭和47年11月1日、海に面する14号埋立地を区に編入した広大な地である。「東京湾第二次改定港湾計画」に基づき防災拠点開発構想をすすめるため、木材流通基地の整備がなされ、昭和48年から、木場地区の木材業者の大部分が移転してきた地である。

夢の島

埋立ては昭和14年にはじめられ、当時飛行場が建設される予定だった。戦後、遊園地などが計画され、いつの間にか夢の島と呼ばれていたが、本区へ編入のときは正式町名となった。

若洲

新たに生まれた若い島の意味で、新木場と若洲の間に若洲橋があり、橋の名にもちなむ。昭和40年11月から埋立てを開始し、49年5月に埋立て終了。54年から64年にかけて本区に編入された。

 

『江東の昭和史』(平成3年)より作成※一部修正しています

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