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更新日:2023年6月8日

船大工

船大工は、船番匠(ふなばんじょう)とも言われたように、大工(番匠)から分かれた職人です。15世紀ごろ、経済が発展し貿易も盛んになると、船の需要(じゅよう)が高まるとともに船が大型化し、それにつれて技術も進んで造船を専業とする船大工があらわれました。

また、製材技術の進歩も船大工の専業化を後押(あとお)ししました。大陸より伝来した大鋸(おが)が15世紀ごろから普及すると、斧(おの)や鑿(のみ)・楔(くさび)で木を割(わ)って板をつくるという打(う)ち割(わ)りから挽(ひ)き割(わ)りへと技法が変化し、薄(うす)い板を挽くことが可能となりました。さらに仕上げ道具として台鉋(だいがんな)も発明されました。

製材技術の進歩により、すべて平板で構成される棚板づくりの大型船があらわれ、江戸時代中期になると、船の大小を問わず棚板(たないた)づくりの船が全国に普及して「和船」(わせん)が生まれます。

和船では板を船釘(ふなくぎ)で留めますが、釘道を開けるために用いるツバノミは船大工特有の道具です。木を削って穴を掘るドリルとは違い、ツバノミは板に打(う)ち込(こ)んで釘道をつくるので、打ち込むと抜けにくく、ツバを下から叩(たた)いて抜きます。そのため、釘道に打った船釘も木が水を含(ふく)むとより締(し)まるために抜(ぬ)けにくくなります。また、板の合わせ目を鋸(のこぎり)ですり合わせてぴったりと密着させ、槇(まき)ハダ(槇の皮を繊維状(せんいじょう)に加工したもの)を合わせ目に打ち込むという防水技術も特徴的(とくちょうてき)です。

和船が暮らしに深く関わっていた江東区域には、船大工が多く住んだことから「海辺大工町」(現清澄(きよすみ)付近)と名付けられた町もありました。しかし、昭和30年代になって和船の需要が減ると、船大工も減っていきます。現在、区内で船大工技術を継承(けいしょう)しているのは佐野造船所のみとなりました。

佐野氏(昭和27年生)は、8代目の父一郎氏について和船の製作技術を習得しました。和船製造の機会が少ない現在、詳細(しょうさい)な設計図の作成と保存をはかるなど、確実に後世へ技術を伝えていくことに努めています。

和船製作の様子

郵便番号 135-0052
住所 潮見2
地区 深川
所在地(所有者) 佐野龍太郎
登録年月日 2012年10月10日/2023年5月10日区指定

お問い合わせ

地域振興部 文化観光課 文化財係 窓口:区役所4階32番

郵便番号135-8383 東京都江東区東陽 4-11-28

電話番号:03-3647-9819

ファックス:03-3647-8470

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